カバールの終焉~慈悲と寛容さの必要性~
1 近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
2 日本人のすばらしさは、きちんとした躾や心のやさしさにある。
3 日本人は、これまで知り合ったどの国の人よりも、うわべだけでなく、すべての物事に対して物静かで、控え目で、知的で、芸術好きで、思いやりがあって非常に感じがよい人たちです。
4 この地球という星の上に今もなお、こんな優美な芸術的伝統を持ち、あのような素朴さと心の美しさをそなえている国民が存在している。
5 この国に特有な感情のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われる、同情心の強さ。
これは1951年、72歳の誕生日のものです。
6 日本の風光は美しい。日本の自然を洗っている光はことのほか美しい。
7 日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。
8 家屋建築が自然の風光と調和して一種の彫刻のようです。
9 日本は絵の国、詩の国であり、謙遜の美徳は、滞在中最も感銘をうけ忘れがたいものとなりました。
10 日本人以外にこれほど純粋な心を持つ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。
11 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
12 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本と言う尊い国をつくっておいてくれたことを。
これ以上ないほどの礼賛の言葉が並びます。
この言葉が、物理学の真髄を極めようとした人物の口から出たことを思うと感慨ひとしおです。
その日本がどうして今のような有様になってしまっているのか。
それはカバールに徹底攻撃をされたからです。
このような言い方をすると陰謀論と言って否定する人がいますが、だとしたらこれだけの堕落をどう説明するのでしょう。
何の外圧もなしに、短期間の間に一民族の精神性がここまで堕落することは可能でしょうか?
カバールとは、一言で言えば自然の摂理に逆らう人たちのことです。
自然の摂理とは、大調和や共存共栄のように個と全体が共に繫栄する仕組みのことです。
カバールはこの仕組みを大いに嫌がりました。
なぜなら彼らのマインドは、一部の者だけが利益を得る世界への妄想に取り憑かれているからです。
そんな彼らが、上に挙げた日本人の資質を喜ぶわけがありません。
まして日本は、第二次世界大戦において圧倒的に優位な連合国に対し不屈の闘志を見せつけました。
カバールはどこかで日本人を不倶戴天の敵とみなしたはずです。
物質のレベルでいくらやっつけても根を上げない日本人を見た彼らは、精神のレベルで僕たちをやっつける意志を固めました。
その戦略の一つが3S政策です。
3S政策というのは、スクリーン、スポーツそしてセックスの3つの「S」により日本人を愚民化させようとする戦略です。
まずスクリーンは二次元を真実と思い込ませる目的で導入されました。
二次元というのは「人間の作者が必ずいる世界」です。
二次元の世界では、自然という作者による大調和の発露は人間の作者にそれがない限りありません。
自然という作者は、共存共栄の実現のために人間の想像を超えた業を発揮しますが、人間に人間の想像を超えることはできません。
カバールは、スクリーンの出来事を真実と思わせることで、日本人を自然から切り離すことに成功しました。
この戦略により、日本人は自然の行う想像を超えた出来事より、人間の想像の範囲内で起こる出来事を好むようになりました。
これは人間の想像を超えるシーンを演出できる力を持つカバールにとって、非常に都合のいい話です。
スポーツは、日本人の「和」を分断させる目的で導入されました。
カバールは、日本人の資質である「和」が彼らの戦略上邪魔になることを知っていました。
彼らは「和」に喜びを感じる僕たちの習性を逆手にとり、プロスポーツを通じて僕たちの「和」を小さな「和」に分断しその「和」同士を争わせることに成功しました。
それまで国益のために働く意識を持っていたサラリーマンたちが自社の利益のみを意識するようになったのも、この戦略の効果ではないかと思います。
スポーツは、スポーツマンシップというフェアの精神が保たれていれば健全な競争と成長をもたらします。
逆にスポーツマンシップが失われた時は、勝利という利益にしがみつく醜い姿を露呈します。
アインシュタインが指摘した同情心は、この国のスポーツの健全さを守ってきましたが、カバールはここもきっちりと狙ってきました。
セックス、つまりスケベ心の肯定です。
スケベ心はフェアの精神の対極にあるものです。
実際にアダルトビデオが世に出てから日本男児は瞬く間に高潔さを失いました。
今日死んでやむなしという潔さが失われ、欲のために明日も生きたいと思う意識が当たり前とされました。
またアダルトビデオに登場する性表現のほとんどは女性をモノのように扱いますが、自らの出自である女性をモノのように扱えば自分がモノ化するのは当然のことです。
そうして人々は、自分自身よりも付帯するモノに価値を置くようになり、ついには純粋な恋愛というものが何なのかを忘れるようになりました。
先日話題になった「夫婦別姓とかどうでもいいから、日本は一夫多妻制にして欲しい!そうすれば、私にもモテ男の夫人になれる可能性がある!」とのツイートは、純粋な恋愛が稀有となった現状を見事に表現しています。
過去にアインシュタインがべた褒めした日本人の堕落には、確実にカバールの戦略が影響しています。
逆を言えば、ここまでやらなければ僕たちを陥落させることはできなかったのです。
そういう意味で言えば、僕たちの敵はマナーを忘れた隣人でも現実を認めずにひたすらアンチ化する人たちでもなく、彼らをそのような人格に変容させたカバールです。
生まれながらに愛と尊厳を存分に発揮していたはずの赤ん坊を、堕落した大人に育てる仕組みを創ったカバールです。
僕たちは、このカバールがいよいよ僕たちの世界から排除される瞬間を目撃しようとしています。
カバールによる陰が充分に極まったので、真逆の陽が始まるのです。
カバールは、自分たちに怒りの矛先が向かないよう今も必死で僕たち人民同士を争わせようとしています。
そしてみなさんご存じのように、多くの大衆はそのような策略に気付かず周りの誰かへの敵意を疑おうとしません。
この敵意に反応してしまうのは仕方のないことかもしれませんが、もし早急な平和の到来を望むのなら慈悲と寛容さを発揮してシーンの勢いを止める必要があります。
怒れる大衆に怒りを返すのではなく、不遇に捉われ逃れられなくなった彼らを憐みの目で見る必要があります。
神はカバールに最大限の悪事を許しました。
それにより、平和を願う強い意志が僕たちにもたらされるからです。
カバールがいなくなった後訪れるのは、平和の大切さにとことん気付いた人たちが集まって創る誰もが幸せに暮らす世界です。
一部の人間だけではなくすべての人が繁栄を享受する優しい開かれた世界です。
これから人類はそれでもなお自分たちだけの繁栄を望む人と平等で公平な繁栄を望む人に分かれます。
自分たちだけの繁栄を望む彼らは、あの手この手で僕たちを誘い寄せその手下にしようとするでしょう。
最後の勝負に賭ける彼らは、政治やメディアなど持てる力をすべてを注ぎ込むので、多くの人は彼らに付き従ってしまうかもしれません。
それでも目覚めた人たちは再び寝ることを拒みます。
彼らは国中そして世界中の目覚めた人間たちと連携を図りながら終末の難を逃れ、そしてついに数千年の栄華を誇ったカバール帝国の崩壊を外から目撃します。
帝国の崩壊のあとは、危険がなくなったためにオープンにコンタクトできるようになった高次元存在との交流が始まります。
先ほど話した慈悲と寛容さの発揮は、このゴールへの到達を少しでも早めるために必要なことです。
怒りは彼らへの憐れみと別れの切なさに変えましょう。
それは間違いなく彼らの気付きを加速させるはずです。
コマンド12 21
僕たちのいる天の川銀河には、太陽みたいな星つまり恒星が約千億個あると言われています。
千億個というのは、米粒で言えばおにぎり約五千万個分の量です。
おにぎり五千万個は、毎日10個づつ食べると13000年かかります。
そして13000年と言えば、アトランティス崩壊があった時ですね。
昨今その実在が明らかにになりつつあるアトランティスの崩壊は、13000年前の出来事と言われています。
つまり、アトランティス崩壊の時から毎日10個づつ食べ続けてきたおにぎりの米粒の数ぐらいの恒星が、この天の川銀河にはあるということです。
その恒星のまわりに更に惑星や衛星があるのだから、とてつもない数の星がこの銀河にはあることがわかりますね。
そして今度は、僕たちの宇宙です。
天の川銀河が浮かぶこの大宇宙には、さらに千億個の銀河があると言われます。
アトランティスの時代から毎日食べ続けてきたおにぎりの米粒の数ぶん、実は銀河もあるということです。
そうなると今度は、なんで宇宙というのはそんなにデカいんだという話になりますね。
ちなみに、僕たちの太陽からもっとも近い恒星は、ケンタウルス座α星といいます。
この星までの距離は約4.4光年、つまり光の速さで4年以上かかります。
光というのは、ご存知のように1秒間に地球を7周半すると言われます。
「い~ち」と言う間に、ブラジルの人に7回会ってさらにもう一回行っちゃうイメージです。
この速さをもってしても、隣の恒星まで4年かかるわけです。
どうしてそんなに遠いの?って、聞きたくなりますが、これは一番近い恒星の話です。
僕たちの天の川銀河は、直径10万光年と言われます。
10万光年というのは、光速で飛ぶロケットに乗って、さっき話したアトランティスから現在までを地球時間で約8回繰り返した頃、やっと到着する距離です。
このような銀河が、やはり果てしない場所にいる千億の銀河たちとこの宇宙を形成しているわけです。
こんなアホみたく大きな宇宙に、本当に僕たちしか生き物がいないとしたら、それはもう悲劇としか言いようがありませんね。
逆にこれまでよく無事で済んだなと感心します。
その場合、ここにいる人たちはみな運命を共にする一蓮托生の仲間なのだから、もっと大事にし合わないといけませんね。
この奇跡のような生命同士が争っている場合ではありません。
ではもし、他の星にも生命体がいるとしたらどういう事になるでしょう。
もし他の星に生命体が存在することを信じるのであれば、この呆れるほど大きな宇宙には、想像を超えた生命体がいるであろう可能性も認める必要があります。
原始的な生命体、遥かに進化した生命体、善意の生命体、悪意の生命体など、いろいろな生命体の存在の可能性に心を開く必要があります。
そうなった時多くの方が戸惑うのは、悪意のある生命体の可能性についてではないでしょうか。
人を頭から食べてしまう、歯が立たないぐらい狡猾な生命体が、この宇宙にいないとは限らないわけですから。
そんな時に思い出して頂きたいのは「人間原理」と呼ばれるものです。
人間がいるから宇宙が存在するという考え方のことです。
例をあげます。
人間がもっとも遠く(望遠鏡の方向)に観測できる天体は、10の27乗cmの先にあるそうです。
対して、人間が観測できるもっとも最小の物質(顕微鏡の方向)は、10のマイナス33乗cmの小ささです。
この両極の真ん中にあたるのが、10のマイナス3乗cm。
これは0.01cmつまり0.1ミリのことで、人間の可視限界がこのくらいのサイズだと思います。
この事から言えるのは、僕たちは見えるか見えないかギリギリぐらいの位置を中心に、果てしなく広がるマクロ方向と果てしなく収束するミクロ方向にそれぞれ世界を見ているということです。
ともすれば、元になる一つの何かがあって、それを極大方向と極小方向に観察した結果が「事象」して見えているのかもしれません。
これは、宇宙人についても同じことが言えます。
おそらく宇宙には、人間の想像するものは全て存在するのです。
悪意に満ちた宇宙人も善意の宇宙人も、呆れるほど進化したものも呆れるほど変な方へ行ってしまったものも、無限の宇宙にはきっと存在します。
そういう意味で、宇宙人の話というのは、究極的に僕たちに何を信じたいのかという問いを突きつけます。
無限に放り込まれた僕たちには、望む宇宙を信じること以外何もできないからです。
では、僕たちはどのような宇宙を信じるのか。
悪意の宇宙人が支配する暗黒の宇宙か、それとも暗黒を覆した善意の宇宙人たちによる天国のような宇宙か。
宇宙人の存在を信じ始めたと同時に、僕たちは自分の信じる宇宙を体験し始めます。
宇宙人とは、想念や心の世界とこの世界を繋ぐキーワードです。
進化のあまり万能となったかもしれない宇宙人を信じることは、このリアリティに「万能」がもたらされる可能性を許すことになるのです。
さて、もし宇宙人の存在を信じるとした場合、思い出して頂きたいのは、善意の宇宙人たちは僕たちを常にサポートしたいと考えている事実です。
僕たちですら困ってる人を助けようとするのだから、善意の塊のような存在が僕たちをただ見捨てるわけはありません。
そのサポートの一つが「コマンド12 21 (トゥエルブトゥエンティワン)」というプロトコルです。
このプロトコルは、地球人の意識の上昇を支援する宇宙人たちが開発したと言われているものです。(本当はどうかわかりません。先ほど話した何を信じたいかという話ですね)
このコマンドを三回唱えます。
そうすると、まず初めて唱えた時に僕たち一人ひとりに専属の宇宙チームが結成されます。(この宇宙には、何百兆何千兆の善意の存在たちがいて、宇宙最後の懸念である地球人類をサポートしたいと考えているようです)
そうして、次回からコマンドを唱えるたびに、このチームが集まって必要な支援を行ってくれるとの事です。
善意の宇宙人たちが、自分たちに続くよう僕たちを導いてくれるという事ですね。
彼らは、時空をコントロールする領域の住民です。
そのため、彼らは距離や時間というものを地球の人たちと同じようには捉えていません。
そんな彼らは、このコマンドは好きな時に何回唱えてもいいといいます。
無限を漂う彼らには、その全てが愛すべきご縁であり喜びなのでしょう。
その彼らはこうも伝えます。
上次元では、善意側の勝ちで勝負がついており、後はその結果が下次元に降りてくるだけだと。
クリエーターのひらめきがその後の作品に影響を与えるように、宇宙人たちの勝負の結果がこれから僕たちの地球に降りてくるということです。
さてこの話が真実だとして、その結果を無事に受け取るために、僕たちは一体何をすればいいのでしょう。
そのためには、とにかく力を抜くことです。
そんな世界来るわけがないと思って頑張っているその手を止めることです。
そして、善意のみの宇宙の到来に真剣に想いを馳せることです。
繰り返しますが、これは何を信じたいかという話なのです。
信じた世界をそのまま体験する時がやってきたという話です。
ちなみに、このコマンドを伝えた宇宙人たちは、これからの時期における女神の重要性を繰り返し伝えます。
女神というのは、カルマと恵みのすべてを産み出してきた存在です。
例えば鬼子母神は、他の子をさらって食べていたとんでもない悪神ですが、その後改心して女神の一人となっています。
そんな懐の深い女神を僕たちはいくらでも頼っていいのです。
全てを産み出した女神は、僕たちのどんな事も許してくれるはずですから。
コマンドを伝えてきた宇宙人たちは、この女神のエネルギーが地球で活性化することを望んでいます。
そのような彼らが伝えたコマンドは、自分と女神エネルギーを同調させるために、きっと役に立つことでしょう。
気になった時はもちろん、今女神や宇宙人はちょっとと思う時にこそ、コマンドを唱えるといいと思います。
彼らといつも繋がっていたいんだという意志が伝わって、きっと善い方に導かれるでしょう。
天皇について
天皇という存在について、僕の考えを記しておきます。
昨今、友人たち界隈で、天皇も闇の勢力であったという論調が高まっています。
明治天皇がすり替わった事はもはや常識ですが、その外にも昭和天皇の悪魔的発言や皇室のスキャンダルが、天皇が闇である証拠だとして界隈を賑わせています。
僕は、それらを否定する氣はないのですが、ただ天皇というものについては違った見方をしています。
それは、天皇という王権は、人間が造ったものではないという見方です。
これを裏付ける話が、飛騨位山のアララギ湖畔にある立て看板に書かれています。
そこには、「大昔に位山三山の一つ船山に空から船が降りてきて、両面宿儺と呼ばれる存在が船から現れ最初の天皇に位を授けた」と書かれています。
それを裏付けるかのように、天皇の持つ笏木は代々位山のイチイ(一位)の木で作られています。
また飛騨には、天皇の先祖たちによる平和王朝の存在が口碑により伝えられています。
もし、天皇という位が高次元存在によるものだとしたら、他の王権とは違う末路に向かう可能性が考えられます。
なぜなら、高次元との関わりを持つものは、人間が造ったもののように簡単には滅びないからです。
例えば、明治天皇のすり替え事件についても、大室寅之祐の血筋を遡ると正統であったというような芸当を高次元存在は簡単に行います。
昭和天皇の発言についても、それが起きたということは、高次元存在にとっては許容の範囲なのです。
それどころか、その後のタイムラインを鑑みた上での最良の行動として、天皇に示唆されていた可能性だってあります。
これは、日本という国が本当に「役目」を持っているのかというのと同じ話です。
「役目」というのは、中心となって世界を導く役目です。
過去の偉人たちが言うように、この日本という国には次世代のリーダーとなる資質が備わっています。
例えば「和」です。
「和」とは、360度方向への広がり、つまり数学的にいう次元上昇の事です。
そして、民族の名に「和」を冠する日本人は、「和」のもたらす喜びを知っています。
その喜びが元となって、現代においても落とした財布が戻るなどという奇跡を起こしてきました。
日本で暮らしてきた外国人は、「和」のこころを想い出した日本人が世界のリーダーになるべきことを知っています。
そんな「役目」を負った日本人に、他と同じように廃れてしまう王権を高次元存在が与えるとは、どうしても思えないのです。
もちろん、世界に先駆けて和を体現するはずだった日本人が、世界に先駆けてボロボロなのは、皆さんも知るところだと思います。
これについては、ひふみ神示というものが説明をしています。
ひふみ神示によれば、この日本は九分九厘外国に乗っ取られたようになるそうです。
その後、残った一厘によって、世の建て直しが行われます。
これを「神一厘の仕組み」といいます。
そう考えてみると、今の日本がまさにそうだとは思えませんか?
気付いたら、何もかもが外国に乗っ取られていた、そうは思いませんか?
だとしたら、これでいいんです。
だって神の計画通りなんですから。
それが起きているということは、まもなく建て直しが始まるということです。
建て直し後の天国が近付いているということです。
この建て直しの時、天皇は一体何をするのでしょう。
それは、見てのお楽しみでいいと思います。
もし界隈で言われるような極悪人たちであれば、この先の建て直しに顔を出すことは、二度とできないでしょう。
最も神を冒涜した人物として、すべての日本人に軽蔑されるはずです。
でももし、これまでと同様にこの先も彼らが穏やかであり続けるのなら、僕は、彼らは天皇という高次からの位を守り切った素晴らしい一族であると信じます。
そのような人たちなら、一度は疑った僕たちの事もきっと許してくれるに違いありません。
僕は、この国全ての兄弟姉妹のためにも、そうだといいと思いますね。
「全員で全員を赦す奇跡」
ゆたぼんという少年ユーチューバーがいます。
不登校宣言をしている男の子ですが、この子の周辺が尋常でない形で炎上しています。(最近は状況が改善されたようですね。よかったです)
尋常でないというのは、大人が子どもを本気でディスっている点です。
しかも子ども一人に対し、大人が集団でディスっています。
いくら彼の表現に腹が立ったとはいえ、そんな事が許されていい訳がありません。
どうしてそんな事が起きているのか、それは彼が学校に行かないという選択を堂々と発信するからです。
不登校という選択に、彼が誇りを持っている事が伝わるからです。
この彼の表現に多くの人が反応しました。
その反応の多くは、一言で言えば「学校教育を舐めるな」というものでしょう。
この現象は、裏を返せばそれだけ多くの人たちが我慢して学校教育を受け入れた事を意味しています。
だってもし自身の学校教育の体験が幸せであったら、誰もゆたぼんに噛み付かないでしょう。
おそらく「行かないなんてもったいないなあ」ぐらいの話で済むはずです。
でも実際には、ゆたぼん親子の人格否定と言ってもいいぐらいの出来事が現実に起きています。
その様はある意味ヒステリックと言ってもいいぐらいのものです。
少なくとも学校教育への愛から来る態度とはかけ離れたものです。
このような状況を見て思うのは、みんな相当我慢して学校教育というものを受け入れてきたんだなあということです。
自然に好きになったのではなく、頑張って好きになったということです。
人間というのは、自然に好きになったものは、否定されてもそれほどの怒りは湧きません。
なんでこの良さがわからないんだろうと、素直に思えるからです。
逆に、頑張って好きになったものは、否定されるともの凄い怒りを覚えます。
頑張った努力と好きになろうとした意志の両方を否定された気になるからです。
学校教育による弊害は、誰も責任を取りません。
自殺しても深く病んでも最後は自己責任です。
これはよく考えれば全くひどい話です。
誰も責任を取らないのにその道を行けとみんな当たり前に言うのだから。
ゆたぼんをディスる大人たちも、きっと同じ事を言われてきたのでしょう。
だから今ゆたぼんに同じ事を言っている。
義務教育の大切さや社会との関わりなどみんないろんな事を言うけど、本当に言いたいのは「こっちは頑張って受け入れたのに何でお前は受け入れないんだ」と、そういう事だと思います。
そんな事がまかり通ったら、自分たちのやってきた事は何だったんだと、そういう怒りをゆたぼんにぶつけているように僕には見えます。
文科省の定める義務教育を受けても、将来幸せになれるかどうかの保証はもちろんありません。
それならばと、自分の体験から学んだ幸せになるための教えを子に施そうとする親が現れても、不思議ではありません。
文科省は教育の責任を取らないけれど、そういう親は自分の教えた事の責任を取るはずです。
だったら責任を取る気のある方に任そうかというのは至極自然な事です。
それに今はネットで何でも勉強できるんです。
文科省の決めた学習指導要領で習う事も、大人になってからいくらだって学ぶ事ができます。
逆に学びたい時に学ぶ方が、ストレスなく覚えることができます。
僕は、ゆたぼんをディスる人たちは、子ども時代に相当不条理を我慢して受け入れてきた人たちではないかと察します。
そのまま大人になって、自由など夢のまた夢という領域に自らを追いやってしまったのではないかと思います。
本当に気の毒な話ですが、でもこれって人類のほとんどが体験した試練だったんです。
国が違えば、その国なりの不条理をほとんどの人が強いられてきたんです。
しかし、そのような状況に我慢できなくなった人たちが、もうそんなのはおしまいにしようとあちこちで立ち上がり始めています。
みんな揃って苦しんだんだから今度はみんな揃って楽になろう、そう願う人たちが世界中に増えています。
もちろん「今さら楽になったって昔は帰ってこない」そう考えるのは当然です。
不条理を受け入れてからの歴史を思えば、子どもの時の感性を取り戻すのは至難の業かもしれません。
しかし全員でその枷を手放したなら、何かが起きるとは思いませんか?
全員で自分の不遇を認め、そして全員で二度とそのような事が起きない世の中を目指したなら、もはやその状況でマウントを取ろうなどと考える人間は一人もいないはずです。
今この奇跡が起きようとしています。
全員で全員を赦す奇跡です。
この奇跡が近付いたので、多くの人たちが慌てています。
もちろん慌てるのは仕方のない事ですが、でもひとしきり慌てた後は落ち着いて考えてみてください。
もう誰も何も強いられない素晴らしい未来がやってきたらどうしますか?
ただいるだけで誰もが愛される、そんな世の中がやってきたらどうしますか?
これは、来る来ないではなく、来て欲しいかどうかです。
起きる起きないではなく、そう信じてみたいかどうかです。
もし子どもの時であれば、誰もがきっとそのような未来が来て欲しいと願ったはずです。
だからこれは、子どもの頃の自分を取り戻す第一歩です。
もう一度、みんなで夢を見ましょう。
その夢は、これまでの全ての体験をかならず価値のあるものにしてくれます。
夢に不可能はありません。
女性性と男性性
まず女性と男性の違いについてですが、これはなんといっても「子宮」があるかないかですね。
男性器と女性器、精嚢と卵巣など、形態は違えど相するものを大抵男女は持つのですが、子宮に当たるものだけが男子にはありません。
それは、女性には「肉体」というハードウェアをこの三次元世界に産み出す役目があるからです。
対して男性はソフトウェアとして、その肉体の元となる卵子を起動する役目を持ちます。
この両方がなければ、僕たちはこの三次元世界に誕生することはできません。
「男尊女卑」というのは、このソフトの方をハードより大事にするという考えです。
この両者に優劣をつける時点でまずおかしいのですが、そこへきてハードよりもソフトを大事にするという点で二重に変ですね。
両方ないと動かないのはわかりますが、でもどっちかを大事にしろと言われたら大事するのはやっぱり「ハード」でしょう。
何しろ、ハードがなければソフトは「存在すらし得ない」のだから。
それに、こう言ってはなんですがソフトってのは換えがきくんです。
ある意味、男なんて一人いれば人口など勝手に増えていきます。
でも「卵子」がないことには、なにも始まりません。
つまり、男女に関しては平等なんかあり得ないんです。
それどころか、創造主と創造物のような全く勝負にならない関係が、そこに存在していると言っても過言ではありません。
それは、全ての人間は女性から産まれたという事実が物語っています。
それと、子を見捨てられない女性性の本質。
これによって「世界は成り立って」います。
もし女性性の優しさがなかったら、子を愛で育てる代わりにチップを埋め込んで管理する世の中にきっとなっていたでしょう。
「男尊女卑」この歪んだ考えを維持するために、世の中は様々な差別を女性に対して行ってきました。
現代の世におけるポルノはその一つです。
多くのポルノは、見た目の過剰な演出や細分化されたエロなど、女性をモノのレベルに落とし込む表現を行います。
しかし本当にHなのは、女性の心が完全に解放されたときに産まれる予測不可能なHです。
このHのためには、女性の心を相当安心または楽しくさせる必要があるのですが、その努力を愛で行わずに金や強要など愛以外の方法で実現させようとするのが今のポルノです。
これは、いくら手を換えても決して境地に届くことのない無限ループの状態です。
ロリコンも、保護して成長を見守ってあげなければいけない存在をただ性欲の対象にしている点で、非常に罪が深いと言えます。
これらの現象が起きている理由はただ一つ、男子に「子どもの時に好きにさせなかったから」、この一言に尽きます。
男子というのは、女子と違って半分は精神でできているんです。
だから、この肉体次元のことでは男子は女子に敵いません。
寿命も肉体の体感もまわりへの順応性も、男子は女子に敵いません。
しかしその代わりに、男子は「身を賭ける」ことができます。
これは、自分を精神体だと知る者ができる行為です。
女子は、おそらく結婚時しかそれをしないはずです。
しかし男子は、それこそ今好きなことに100%「身を賭ける」ことができます。
これは、女子のように体内に守る「お宮」がないからですね。
だから、何でも「思いっ切り」できてしまうんです。
この「思いっ切り」できることこそが男子の本懐です。
だから男子には、小さいうちから何でも好きなことを思いっ切りさせて育てるといいんです。
このように育てられた男子は、ポルノが氾濫する世の中でもそれに惑わされることがありません。
男子の本懐に生きてるので、女子の一部だけを見せるポルノに惑わされないのです。
逆に「好きなことをさせてもらえなかった男子」、この男子は将来絶対大変になります。
今はそんな男の人ばかりでしょう。
子ども時代に好きなことを思いっ切りさせてもらえなかった、だから大人になってしかも大人のゆがんだ頭でそれをやろうとします。
男子に好きなことをやらせないのは、女子に「かわいい」を諦めて生きろというのと同じです。
そんなことをされたら、病んでしまうのは当然の話です。
そうして病んだ男子は、大人になって得た力を使って女子をモノのように扱います。
つまり女子は、自分の息子たちに好きにさせないことで、自分たち女子の将来も同時に狭めているのです。
男子の半分は精神と言いました。
精神とは、その名の通り「神のエッセンス」のことです。
だから、精神が高まれば人間は神になり、逆に堕落すれば獣化した存在となります。
そして「男尊女卑」とは、精神のレベルに関係なく男が神のように振る舞うことです。
このような乱暴な考えは、とっととやめなければなりません。
では、どうすれば「男尊女卑」という考えが間違いだという概念が広がるのでしょう。
そのためには、女性をモノとして扱うことをやめる必要があります。
これは男女ともにそうです。
特に、女性の方が自分を商品と思っているふしすらありますね。
その考えが、男をポルノに走らせ、結果的に「女性は若いうちが花」という考えを蔓延らせます。
女性の本当の美しさとは心の美しさです。
それは、命を放っておけない「女神の心」です。
近いうちに、男子はこの美しさに揃って目覚めます。
その日がまもなくやって来ることを女子の皆さんには知ってほしいと思います。
そのときに慌ててしまわないよう、今から「本当の女子力」というものに目覚めてほしいと思います。
本当の女子力とは、今思う女子力を発揮するその前に、すべての生命がみな幸せであることを祈ることです。
そうするだけで、目覚めた男子たちの目に留まる女子になれます。
男子には、「無常」を受け入れる覚悟が必要です。
「無常」つまりすべてをなくす覚悟のことです。
そんな難しいこと、できるわけないと思うかも知れません。
でも僕たちは、「明日何が起きるかわからない」世界に実際のところ生きています。
急に病気になるかもしれない、事故に会うかもしれない。
大地震が起きるかもしれない。
明日の事を思い煩うというのは、実は傲慢なことです。
だって、予想した通りの明日が来るとは誰にもわからないのだから。
そう本気で考えた時、自分の中にどんな変化が起きるでしょう。
男子には、ぜひその変化に従ってほしいと思います。
どの人間もいつ死ぬかわからない、そう本気で考えたなら今やるべきことは「今日死んで悔いのないこと」それ以外にないはずです。
そして、男子のそのような姿を見た女子は、本能でその男子を応援してしまうことでしょう。
ソフトウェアはハードウェアがなければ存在し得ません。
しかし、そのソフトの進化がハードを進化させてきたこともまた事実です。
女子の本質が「存在」つまり「ただある」ことだとすれば、男子の本質はそれを進化させるところにあります。
そして男子が進化する時、女子がそして女子が産み育てる子どもたち、つまり「世の中」が進化します。
もちろん、現在僕たちが置かれているがんじがらめの状況の中では、「人としての進化」を考えることなど至難の業でしょう。
いくら「無常」を受け入れる事が必要だと言っても、何もかも失うことは想像するだけでも辛いことです。
そういうときは、励まし合いましょう。
「無常」に向かう者同志励ましあえば、きっと何らかの活路つまり喜びが見えるはずです。
その喜びの先には、どの男女も仲良くなれる新しい世界が待っています。
その世界でみなさんに出会いたい、そう願っています。
ピンク・ウクライナ
半田広宣さんという方がいます。
冥王星のオコツトと呼ばれる知性体からもたらされた情報を元に、ヌース理論という全く新しい思考形態を理論化されている方です。
このオコツトからの情報に、太陽系第十番惑星に関わるものがあります。
オコツトによれば、この第十番惑星は人類の終末的危機に終わりを告げる福音として、僕たちの前に姿を現すそうです。
話は変わって、僕がよく話題に挙げるサイトの一つにコブラのブログがあります。
コブラというのは、Compression Breakthrough(圧縮状態の突破)の略です。
コブラによれば、現在地上の闇に対して、宇宙から地上に向かう光の勢力と地下から地上に向かう光の勢力が、上下から挟み撃ちをしているそうです。
この挟み撃ちがMAXに達し圧縮状態が極まったとき、地表の闇が消滅すると同時に、目覚めた人類は無事に圧縮を突破し新世界へ意識を移行させます。
この圧縮突破の瞬間を"イベント"と呼びます。
このコブラですが、自らをレジスタンス・ムーブメントの広報と呼んでいます。
レジスタンス・ムーブメントとは、イルミナティの支配を覆そうとする諜報員たちのグループが、太陽系第十番惑星(以降惑星Xと呼びます)の自由戦士たちと合流してできた組織だそうです。
ちなみに惑星Xについては、2008年日本の天文学者によりその存在についての研究が発表されてます。
このオコツトとコブラというまったく関係のない二つのソースが、惑星Xについての情報を伝えていることを知ったとき、僕は相当驚きました。
しかも、オコツトは惑星Xを危機的状況に終わりを告げる福音と伝えましたが、コブラの伝えるレジスタンス・ムーブメントの姿もまさにその在り方です
そのコブラですが、光の勢力が闇の地下基地を解放する決戦がまもなく起こることを先日の記事で伝えました。
その後の短信で、今日6月28日に光の勢力が地上と地下において重要な作戦を行うことを伝えてきました。
ちなみにコブラは、僕の記憶の限りですが、これまで一度も光の勢力が行う作戦の日付を伝えたことはありません。(そんな事をしたら間違いなく闇に手を打たれてしまいます)
しかし今回はその日付を伝えました。
これは日付を明かす事がもはや不利とならないぐらい、状況が激化しているからであると思われます。
光の勢力は、この作戦の支援のために導かれた人は誰でも瞑想を行うことを勧めています。
今回要請のあった瞑想は下記の通りです
これらの瞑想を行うことで、光の勢力の作戦を支援することができます。
この作戦の成功は、地球解放のステージを大きく前進させます。
おそらく僕たちの知覚するこの現実においても、何らかの変化を見ることができるでしょう。
光の勝利!
創造主と円周率
循環することなく永遠に数字の羅列が続く円周率、この羅列の中にはどんな並びの数字も存在すると言われます。
例えば、僕の誕生日は1965年8月26日ですが、この1965826という数字は永遠に続く円周率の羅列の中に必ず存在します。
もちろん誰の誕生日もそうですし、誕生日だけでなく僕たちが思い付く数字は何でもこの円周率の羅列の中に存在します。
円周率は、全ての並びの数字を内包して完全な真円を形成します。
逆を言えば、一つでも円周率の中に存在しない数字があった場合、その円は真円にはなりません。
同じことが創造主にも言えます。
創造主の慈悲や慈愛、その御業を理解するためには、一つでも否定される創造があってはなりません。
僕たちは、創造主による創造つまり存在する全てを受け入れることで、初めて創造主の本質を知ることができます。
どんな物事も、存在したからには創造主による賜物だと信じる事が、創造主の慈悲や慈愛を理解するためには必要だという事です。
では、実際に僕たちは存在する全てを受け入れる事ができるのかというと、そんな難しい事できるわけないですね。
特に、昨今噂される闇の人間の所業など、どう考えても受け入れられるようなものではありません。
それは、僕たち人間の自然な感情であり、起きうる当然の作用です。
ただ、人類の進化というものを考えた時には事情が変わってきます。
なぜなら、僕たちより進化した存在はみな創造主の慈悲や慈愛を知っているからです。
それらを知るということは、彼らは創造された全てを受け入れる意識を既に獲得している事になります。
彼らは、どのようにして到底受け入れ難い出来事を受け入れる事ができたのでしょう。
おそらく彼らは、創造主の業に間違いはない事を信じ切ったのだと思います。
その信仰の深さが彼らを無条件の愛というものに目覚めさせ、ついには創造主の神秘を自らが体現する領域に達したのでしょう。
例をあげます。
宇宙人アミなどの本を読むとわかりますが、進化を遂げた彼らにも、彼らの観念上の悪を排除しようとした時期は存在していました。
もちろん、排除しても悪は決してなくなりません。
物事の根本的な解決を願った彼らは、悪を排除するのではなくその存在に意味を見出すマインドに舵を切ります。
悪という存在が自分たちの人生に登場したには何か理由があるに違いない、そう考える事にしたのです。
そのようにして、悪にすら意味を見出そうとした彼らは、ついに善悪の二元性を超越した上位の次元が存在する事を発見しました。
全てが創造主の御業として受け入れられるポジティブのみの世界です。
この世界の存在を知った彼らは、これまで悪と決めていた物事に別の見方を与える作業に勤しみ始めました。
そして、悪と思われていた出来事のほとんどが、社会の無関心により起きていた事実を突き止めました。
それと同時に、全く更生が不可能なただ進化を妨害する事を目的とする存在がいる事もわかりました。
このような存在は、星の住民の意識が上昇するにつれ、自然に淘汰されていきました。
そうして彼らは、存在する全てを受け入れた世界とは、慈悲と慈愛に満ちた平和な世界であるとの認識を獲得しました。
同時に、全てを創造する創造主の本質も、慈悲と慈愛に溢れるものだった事も理解しました。
さて僕たちは今、彼らのようになりたいか否かの選択を迫られています。
今回のサイクルで進化を遂げたいか、次回に持ち越すかの選択です。
これは、どちらが合っていてどちらかが間違っているという話ではありません。
なぜなら、上位の次元に存在する時間は、過去から未来に向かう線形の時間だけではないからです。
そこに到達した者にとって、どちらが早くどちらが遅いなどいう概念はありません。
全ては、ポジティブな創造主の御業の一つとして認識されます。
魂の進化に強制はありません。
それが百年かかろうが一億年かかろうが、創造主の完全性を証明するためにはその体験が必要なのです。
これから僕たちは、進化に向かう人たちのグループと、それを一旦持ち越す人たちのグループに分かれていきます。
進化に向かう人たちは、起きる全てをポジティブに捉えるため、そうでない人は彼らと一緒にいる事が苦痛となります。
その苦痛は、自然に両者の棲む領域を分けていきます。
もし、進化のためには苦痛をも受け入れたいと思う人がいたら、ネガティブに感じる物事に肯定的な意味を見出す作業を今から始めるといいでしょう。
そのためには、他の人のアイデアや見方をどんどん参考にするといいと思います。
人間はこの惑星に70億人以上います。
これだけ多くの人がいれば、どんな物事にも納得のいくポジティブな見方を教えてくれる人が必ずいます。
必要なのは、進化のためにこれまでの自分の見方を変えてみたいという意欲です。
この意欲さえ失わなければ、創造主の慈悲と慈愛に囲まれた領域に必ず到達するでしょう。
悪と思われるものは、この領域への到達を僕たちに渇望させるために存在しています。
それは、進化の道を知らせるために用意された創造主からのギフトです。
進化を求める人は、ぜひそう信じて前へ進みましょう。
特に今は、周期の終わりが近付いたために創造主のエネルギーが届きやすくなっています
以前のように、肯定的な想いを邪魔されることは少なくなっているはずです。
進化に向かわずに一旦様子を見るというのもリスペクトされる判断です。
その判断も、創造主の大調和を表現する要素の一つとなります。
大事なのは、創造主の御業の一つである自分を後悔しないよう、自分が納得することのみに自分を従わせる努力です。
この努力さえ忘れなければ、後は何も心配することはありません。
後悔のない、つまり自身を否定しない意識は、自らを創造の一部と成して、創造主の慈悲と慈愛を受け取る体験を人生に必ずもたらすでしょう。