「全員で全員を赦す奇跡」
ゆたぼんという少年ユーチューバーがいます。
不登校宣言をしている男の子ですが、この子の周辺が尋常でない形で炎上しています。(最近は状況が改善されたようですね。よかったです)
尋常でないというのは、大人が子どもを本気でディスっている点です。
しかも子ども一人に対し、大人が集団でディスっています。
いくら彼の表現に腹が立ったとはいえ、そんな事が許されていい訳がありません。
どうしてそんな事が起きているのか、それは彼が学校に行かないという選択を堂々と発信するからです。
不登校という選択に、彼が誇りを持っている事が伝わるからです。
この彼の表現に多くの人が反応しました。
その反応の多くは、一言で言えば「学校教育を舐めるな」というものでしょう。
この現象は、裏を返せばそれだけ多くの人たちが我慢して学校教育を受け入れた事を意味しています。
だってもし自身の学校教育の体験が幸せであったら、誰もゆたぼんに噛み付かないでしょう。
おそらく「行かないなんてもったいないなあ」ぐらいの話で済むはずです。
でも実際には、ゆたぼん親子の人格否定と言ってもいいぐらいの出来事が現実に起きています。
その様はある意味ヒステリックと言ってもいいぐらいのものです。
少なくとも学校教育への愛から来る態度とはかけ離れたものです。
このような状況を見て思うのは、みんな相当我慢して学校教育というものを受け入れてきたんだなあということです。
自然に好きになったのではなく、頑張って好きになったということです。
人間というのは、自然に好きになったものは、否定されてもそれほどの怒りは湧きません。
なんでこの良さがわからないんだろうと、素直に思えるからです。
逆に、頑張って好きになったものは、否定されるともの凄い怒りを覚えます。
頑張った努力と好きになろうとした意志の両方を否定された気になるからです。
学校教育による弊害は、誰も責任を取りません。
自殺しても深く病んでも最後は自己責任です。
これはよく考えれば全くひどい話です。
誰も責任を取らないのにその道を行けとみんな当たり前に言うのだから。
ゆたぼんをディスる大人たちも、きっと同じ事を言われてきたのでしょう。
だから今ゆたぼんに同じ事を言っている。
義務教育の大切さや社会との関わりなどみんないろんな事を言うけど、本当に言いたいのは「こっちは頑張って受け入れたのに何でお前は受け入れないんだ」と、そういう事だと思います。
そんな事がまかり通ったら、自分たちのやってきた事は何だったんだと、そういう怒りをゆたぼんにぶつけているように僕には見えます。
文科省の定める義務教育を受けても、将来幸せになれるかどうかの保証はもちろんありません。
それならばと、自分の体験から学んだ幸せになるための教えを子に施そうとする親が現れても、不思議ではありません。
文科省は教育の責任を取らないけれど、そういう親は自分の教えた事の責任を取るはずです。
だったら責任を取る気のある方に任そうかというのは至極自然な事です。
それに今はネットで何でも勉強できるんです。
文科省の決めた学習指導要領で習う事も、大人になってからいくらだって学ぶ事ができます。
逆に学びたい時に学ぶ方が、ストレスなく覚えることができます。
僕は、ゆたぼんをディスる人たちは、子ども時代に相当不条理を我慢して受け入れてきた人たちではないかと察します。
そのまま大人になって、自由など夢のまた夢という領域に自らを追いやってしまったのではないかと思います。
本当に気の毒な話ですが、でもこれって人類のほとんどが体験した試練だったんです。
国が違えば、その国なりの不条理をほとんどの人が強いられてきたんです。
しかし、そのような状況に我慢できなくなった人たちが、もうそんなのはおしまいにしようとあちこちで立ち上がり始めています。
みんな揃って苦しんだんだから今度はみんな揃って楽になろう、そう願う人たちが世界中に増えています。
もちろん「今さら楽になったって昔は帰ってこない」そう考えるのは当然です。
不条理を受け入れてからの歴史を思えば、子どもの時の感性を取り戻すのは至難の業かもしれません。
しかし全員でその枷を手放したなら、何かが起きるとは思いませんか?
全員で自分の不遇を認め、そして全員で二度とそのような事が起きない世の中を目指したなら、もはやその状況でマウントを取ろうなどと考える人間は一人もいないはずです。
今この奇跡が起きようとしています。
全員で全員を赦す奇跡です。
この奇跡が近付いたので、多くの人たちが慌てています。
もちろん慌てるのは仕方のない事ですが、でもひとしきり慌てた後は落ち着いて考えてみてください。
もう誰も何も強いられない素晴らしい未来がやってきたらどうしますか?
ただいるだけで誰もが愛される、そんな世の中がやってきたらどうしますか?
これは、来る来ないではなく、来て欲しいかどうかです。
起きる起きないではなく、そう信じてみたいかどうかです。
もし子どもの時であれば、誰もがきっとそのような未来が来て欲しいと願ったはずです。
だからこれは、子どもの頃の自分を取り戻す第一歩です。
もう一度、みんなで夢を見ましょう。
その夢は、これまでの全ての体験をかならず価値のあるものにしてくれます。
夢に不可能はありません。