ストップ学校教育
今日はある人たちにとっては非常に厳しい話を伝えますが、ここで子どもたちに正しい事をしておけば、後できっと彼らが助けてくれます。
どうぞそう信じてお読みください。
まず、どの大人でもいいので呼び止めて「学校で勉強したこと覚えてますか?」と聞いてみます。
おそらく多くの人が、あまり覚えていないと答えるはずです。
今も学校の勉強を覚えているのは専門的な道に進んだ人だけで、いわゆる一般の人たちは学習したそのほとんどを忘れてしまっているのではないかと思います。
おそらく、中学生のテスト問題をすらすら解ける大人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
このような先になって忘れてしまう勉強を、なぜ一度しかない子ども時代を犠牲にしてまで、一生懸命やろうとするのでしょう。
それは、学んだ内容より学歴がほしいからに決まっています。
もっと言えば、学歴がもたらす安泰な人生ですね。
これのために、子ども時代という何でも吸収する貴重な期間を、後になって忘れてしまう事を暗記する作業に費やしています。
どうして僕たちは、もっと人生に本当に役に立つことを子どもに教えないのでしょう。
例えば、お百姓の仕事です。
百姓には、百のやることがあるという意味があるらしいですが、凄いのはそのどれもが日々の暮らしに役立てる事ができる点です。
しかも、百姓の仕事にはゴールがありません。
求めれば求めるだけ精度を高める事ができます。
だから、お百姓はよくいいますね。
わしらは毎年一年生やって。
こういう勉強なら、子どもも覚え甲斐が湧くんです。
だって、覚えた事がずっと役に立つんですから。
それでも、いわゆる学校教育のような内容のことを教えたいのなら、せめて子どもの「面白がって覚える」特質を利用するべきです。
例えば、うちの子どもたちは、妖怪ウォッチというアニメが出たときに、400体以上の妖怪の名前をあっという間に覚えてしまいましたが、そんな事は子どもなら当たり前の話です。
一度ゾーンに入った子どもの能力は、大人のそれとは比べ物になりませんから。
もし本当に子の能力を開花させたいのなら、覚えたい時に覚えたい事をとことん覚えさせればいいのです。
そうすれば、例えば小学校で習う千個の漢字なんかも、一年生の間に全部覚えてしまう事だって可能です。
でも今の学校は、習う時期が来るまで自分の名前も漢字で書かせないんでしょう。
アホですねぇ。
自分や友達の名前を自由に書かせてあげれば、キラキラネーム全盛のこの時代、むちゃくちゃいろんな漢字を覚えたことでしょう。
でも学校は、それを覚えたい時に書かせずにいて、後で自分のタイミングで教えた時に書けないと叱ってバツをつけるんでしょう?
一体何をしたいんだって話です。
大体、自分の名前よりも制度を大事にしろと言った時点で、教育者としてアウトだと僕なんかは思いますけどね。
カリキュラムもそうですよ。
覚えたい時に覚えさせるのではなく、こちらの決めた通りに覚えた者を優秀とする。
もうご存知の方も多いと思いますけど、日本の学校教育って学校が決めた通りに動ける子を優秀とするんです。
要は「人」として優秀な人材ではなく、社会の構成員として優秀な人材を育てているんです。
社会の構成員として育てる事の何が間違っているんだ、そう思う方がいるかもしれませんが、もし誰も泣く人のいない平和な社会であれば、そこの構成員に育てる事は間違いではないでしょう。
しかし、年間の自殺者が万の位に達し、炉の吹き飛んだ原発がまだそこにあるのに、自分の周りが平和だからいいと思って暮らす人間が満載の社会の構成員に育てる事は、僕はいい事とは思いません。
そこに疑問を持つ子よりも、ただ大人の言う事に従った人間を優秀とする教育は、僕は間違いだと思いますね。
大体、この教育の責任、誰か取る人がいるんですか?
この教育、最後にはお前自身のやった結果だってなるんです。
子ども時代の愛しか知らない時期に散々それ以外の事で振り回して、それで最後はお前の責任でしょう。
神との対話という本の中に、現在の学校教育は大人が間違っていない事を証明するためのものだとありましたが、本当にそう思いますね。
よく言われる事ですが、人として大事な事は子どもの方がよくわかっています。
それを忘れてしまった大人たちが、自分のアイデンティティを守るために何とか子どもたちを自分たちのレベルに落とし込もうとしている、現在の学校教育はそのように見えますね。
そうしたら、本当にそうだったみたいですよ。
今の日本の学校教育の基礎を作ったのは、ロックフェラーと呼ばれる一族ですが、彼らが開発した教育を日本は戦後導入させられたんです。
ロックフェラーというのは、権力者の権化のような一族です。
その彼らが、占領した国の、しかも自国の兵士にショックを与えるほどの戦い方をした国の国民に、自分たちを超える可能性のある教育を施す訳がありません。
そのような彼らは、自分たちに背かないための教育を必ず施すはずです。
それぐらい、権力者にとって子どもというのは恐ろしい存在なのです。
だって、可能性の塊のような子どもたちがそのまま大人になったら、彼らの権力も絶対何とかしようとしちゃいますからね。
しかも、王様は裸だとか平気で言っちゃいますから、彼らは。
そりゃ権力者は目の敵にしますって。
この厄介な子どもという存在を何とか封じ込める事はできないか、そのために導入されたのが、現在の「学歴のための勉強」です。
これは、大企業の積極的な大卒の雇用と共に導入されています。
マスコミによる「大企業は史上最高のボーナス」なんて報道も、もちろんセットです。
この教育制度の導入により、子の頭の良さは、事象を多角的に捉える賢さから、出題者の意図に沿う能力で判断されるようになりました。
要は、お上の善悪を問う子よりも、お上の善悪を気にしないおバカさんの方が優秀なことになってしまったのです。
さて、ちょっと視点を変えるだけで、学校教育についての様々な疑問が湧き上がるのは、それだけ教育行政というものが、本来やるべき事と違う事をやってきたからです。
例えば、もしどこかの学校の生徒が自殺してしまったら、日本中の学校が手を止めて、その原因に皆で心を寄せるのが本当の教育です。
だって、同じように学校に通う自分たちの仲間が自殺したんですよ。
そのような出来事が起きた時は、何が問題だったのかを真剣に考えてあげないと、子どもたちは不安で仕方ないはずなんです。
でも今の学校は、うちの学校は大丈夫だからと、そういう収め方をしますよね。
そういう人として尊敬できない態度を取りながら、最後には師への恩とか歌わせるでしょう。
もうやめませんか、そういうの。
子どもに本音を言わせずに、良かった事にするのやめませんか?
教育上悪いですよ。
確かに、もし子どもに本音を許したら、人間小さいねって言われる先生方たくさんいると思います。
でもしょうがないでしょう、ほんとの事なんだから。
学習指導要項に逆らって真実を教える事が本当の教育だったなんて、大学まで通ったら気が付く訳がありません。
だから先生方も悪くありません。
悪いのは、学校教育の弊害がここまで伝えられていながらも、同調圧力を利用してそれを封じ込めてきた一部の権力者たちです。
学校に苦しめられている人は、みんなこの勢力の犠牲者です。
さて、僕がここで話した事は、近いうちに常識となります。
コロナで内定取り消しが出た時点で、つまり大人たちが自分を守るためには寸前で梯子を外すことがあるとわかった時点で、もうその流れは始まっています。
大樹の元で勤めるしか生き方を知らない大人は、それでも何とか子どもを学校に行かせようとするでしょう。
でも子どもたちは、もう大人たちの欺瞞を知ってしまいました。
YouTubeを見ていたら、そうなるのは当然です。
YouTubeでは、多くのYouTuberたちが世間の欺瞞を明らかにする動画を発信しています。
Adoさんの「うっせぇわ」などは、そのPV数が既に1.5億回に達しています。
それに、インターネットがあれば勉強などいくらでもできるんです。
しかもネットの場合、わからない事は好きなだけ何回でも繰り返してみることができます。
このような素晴らしい教材はすぐにでも取り入れるべきなのに、権威や制度を守るのに必死な大人は簡単に動くことができません。
そんな大人たちを見た子どもは、教育者と言いながらも子どもより大事にしているものがある大人たちの欺瞞に気が付いてます。
そのような子どもたちが、不登校を選択することはまったく不思議ではありません。
いじめや点が取れないプレッシャーで悩むぐらいなら、家で好きな勉強していた方がよっぽどいい、そう考える子はこれからさらに増えるはずです。
もしかすると、家で勉強した方が学力が上がるなどという逆転現象が起きてしまうかもしれません。
それでも先生方は、家庭を訪問して学校に来るよう子どもたちを説得し続けるでしょう。
本当は自分のために来てほしいのに、君のためだとの言葉をいくつも並べながら。
もちろん先生方だって、そんな目に会おうと思って教員になったわけではありません。
これは、お上がどうであろうと従うことをよしとしてきたこの国の空気が原因です。
その空気を変える力を持ちながら、何もしてこなかった教育行政もです。
このような状況を変えるためには、これからの学校は自由登校を目指すべきです。
自由登校でも生徒がやってくる学校を、これからの教育者は目指すべきです。
もし自由登校なのに生徒が集まる学校があったら、誰もが興味を持つでしょう。
そんな学校がいくつもある地域には、日本中の親子が移住を求めるはずです。
でも自由登校で一体何を教えればいいんだ、そう思う方がいるかもしれません。
何を教えるかは、子どもに聞くんです。
子どもが知りたい事について、知っている事はそれを教え、知らない事は子どもと一緒になってそれを学ぶ、これからの学校はそれでいいはずです。
カリキュラムはどうするんだという声が聞こえてきそうですが、どうせ忘れてしまうことを暗記するよりは、知りたい一つのことをしっかり学ぶ方がよっぽど後の役に立ちます。
それに、こういう体験をした子たちは、その先生の事を忘れる事がありません。
そこで学んだ事も、思い出と共にいつまでも心に残ります。
その思い出が、自己を肯定する力となります。
子どもには、これからは心を教えなければならないのです。
そして心を教えるためには、まず自分が裸にならなければいけません。
今の先生方に、これができるでしょうか。
どちらにしても、心を何よりも大切にしなければならないと全員が気付く時は、もうそこまで近付いています。
そして、心に生きることにかけては、大人は子どもには敵いません。
これからは、子どもたちからも謙虚に学ぼうという気のある人だけが、教師という職を目指すようになります。
子どもたちと一緒に、自身の心を成長させることに喜びを感じる人が、教師という職に就くようになるでしょう。